公益財団法人 日本吟剣詩舞振興会
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漢詩を紐解く! 2021年12月




石川丈山「富士山」
(いしかわじょうざん 「ふじさん」)


漢詩は学ぶほどにその魅力にとりつかれ、味わい深くなります。
毎回何首かの詩を取り上げ、奥深く豊かな詩の世界を少しだけ解きほぐしてみたいと思います。
出来る限りテレビやラジオの演目に合わせて詩を選びますので、吟詠の一助にお読みいただければ幸いです。ときには和歌も取り上げたいと思います。


富士山を詠う和歌と漢詩を読みます。
山部赤人の「田子の浦に」は、『新古今和歌集』巻六に収められています。『小倉百人一首』にも採られている、おなじみの歌です。

田子の浦にうち出でて見れば白妙の
富士の高嶺に雪は降りつつ


〈田子の浦の眺望のきくところに進み出てみると、真っ白い富士の高嶺に、今なお雪はしきりに降っていることだ〉

「つつ」は動作の反復継続を表します。「つつ」と言うことは、現に雪が降っていることになりますから、実景としての白妙の高嶺を見ることはできません。が、『応永抄』などでは「つつ」と言うところに余情があると言います。王朝人は、流麗な調べにのせて、幻想的な景色を思いうかべて味わっていたのです。

山部赤人は奈良時代初期の歌人で、もとの歌は『万葉集』に収められています(巻三)。

田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ
富士の高嶺に雪は降りける


〈田子の浦を通って開けた所に出て仰ぎ見ると、なんと真っ白に、 富士の高嶺に雪が降りつもっていることよ〉

『万葉集』では「ゆ」という経過を表す助詞を用いて詠いだし、「真白にぞ~ける」といわゆる懸かり結びを用いて降り積もっている雪の白さを強調し、富士山の荘厳な美しさを詠います。『新古今』では「ゆ」を「に」に、「真白にぞ」を「白妙の」に、「降りける」を「降りつつ」と改め、富士山の優美さを強調し、幽玄的に詠います。時代の趣向に従ってわずかに改編しただけで歌風がこんなにも変わるとは驚きです。

「田子の浦ゆ」は、実は、長歌「不尽山を望む歌」の反歌です。富士山は霊山として崇められていましたので、長歌では神秘な山として詠っています。

天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は

天地開闢のその昔から神々しくそびえる富士山、高嶺を振り仰いでみると、空を渡る日も隠れ、照る月の光もみえず、いつも雪が降り積もっている、この神々しい富士の高嶺を永遠に語り継いでゆこう、と。
さて、石川丈山の詩は、富士山を詠う漢詩に画期をもたらした詩です。

 仙客來遊雲外巓[仙客来たり遊ぶ 雲外の巓]
 神龍棲老洞中淵[神龍棲み老ゆ 洞中の淵]
 雪如紈素煙如柄 [雪は紈素の如く煙は柄の如し]
 白扇倒懸東海天[白扇倒しまに懸る 東海の天]

〈仙人が雲の上に聳える頂きにやって来て遊び、神竜が山のほら穴の中の淵に長年住みついて老いている。雪は白い絹のようであり、煙は柄のよう。白い扇子がさかさまに東海の空に高く懸かっ ている〉

前半は、荘厳で神秘的な富士山です。「仙客」は仙人、「雲外の巓」は頂上が雲の上にあることをいいます。そこには仙人しか行けません。「神龍」は神々しい竜。「洞中の淵」は、中国古代の神仙思想(洞天思想)を踏まえたもので、「洞中」は仙人が住む別天地です。その別天地の淵に神竜が長年住みついていると言って、富士山が永遠の霊山であることを強調します。なお古代中国では、「洞」は全国にある他の「洞」とつながっていると考えられていました。

後半は、一転して実景を詠います。第三句は同じ構成の表現を繰り返し、句の中で「対」を構成します。これを「句中対」といいます。「如」は「~のようだ」という直喩です。「紈素 」は白い絹。富士山に積もる雪を譬えます。

「煙」は富士山の煙。詩が作られた当時、富士山が煙を吐いていたことが分かります。「柄」は、読者に「何だろう」と疑問をもたせ、第四句で「白い扇子がさかさまに空に懸かっている」と種明かしをします。つまり「柄」は扇子の柄で、煙を柄に見立てたのです。「東海」は日本の東の海。「天」は空です。

海の青、空の青の中に、高く聳える真っ白な富士山。奇抜な発想によって美しく荘厳な富士山が強く印象づけられます。この詩から「白扇」が富士山の代名詞になりました。