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菅原道真「九月十日」
「九月十日」は重陽の翌日で、前日と同じように詩酒の宴が開かれました。前日の九月九日を重陽と言うのは、陽の数(奇数)の最も大きい「九」が重なるからです。平安時代には清涼殿に官僚が参集して菊花の宴を催し、帝の提示した題に応じて詩を作って文雅の遊びを行いました。道真のこの詩は延喜元年(九〇一)の作です。
去年今夜侍淸涼[去年の今夜清涼に侍す]
秋思詩篇獨斷腸[秋思の詩篇独り断腸]
恩賜御衣今在此[恩賜の御衣今此に在り]
捧持毎日拜餘香[捧持して毎日余香を拝す]
〈去年の今夜は清涼殿に侍り、他の臣たちとともに「秋思」の詩を作り、自分の詩だけが腸もちぎれんばかりの悲しい思いを詠った。そのとき帝から賜った御衣はいまここにあり、毎日捧げ持って帝の余薫をかいでいる。〉
去年は帝から「秋思」の詩を褒められ御衣を賜るという恩寵に浴しましたが、今年は状況が一変して大宰府に流されて独り悲しみを抱いています。華やかな思い出と、沈鬱な現在。何と大きな落差でしょうか。結句の「御衣を捧持して毎日余香を拝す」は、道真の帝に対する忠誠心を表しています。
「秋思」の詩は、道真が八九七年右大臣になってより顕栄の絶頂にあった時の作品です。帝のご恩に報いられそうもないという内容で、題名は「九日後朝、同に秋思を賦して制に応ず」です。
丞相度年幾樂思[丞相年を度って幾たびか楽思す]
今宵觸物自然悲[今宵物に触れて自然に悲し]
聲寒絡緯風吹處[声は寒し絡緯風吹くの処]
葉落梧桐雨打時[葉は落つ梧桐雨打つの時]
君富春秋臣漸老[君は春秋に富臣漸く老ゆ]
恩無涯岸報猶遲[恩は涯岸無く報ゆること猶ほ遅し]
不知此意何安慰[知らず此の意何くにか安慰せん]
飮酒聽琴又詠詩[酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず]
〈右大臣の職を拝して年月を送り、幾度となく楽しい思いもしてまいりましたが、なぜか今宵は折に触れてそぞろに哀れを催し、悲しみが湧き起こります。吹く風の中より聞こえてくる虫の音は冷ややかに胸にしみ、そぼ降る雨のなか桐の葉の舞い散るのを見ると、たまらなく寂しくなります。陛下は春秋に富んでお若くあらせられますが、わたしはめっきり年をとり、気の弱まりを感じます。ご恩は涯しないほど広く、果たして存命中にお報いできますかどうか、心細いばかりです。この憂苦を晴らそうにも晴らすことができません。白楽天は憂悶を晴らすのに、三つのものを挙げております。私もそれにならい、酒を飲み、琴を弾き、詩を詠じて自ら慰めようと思う次第です。〉
招宴における応制の詩は、招待を受けた栄誉と喜びを詠い、最後は招待者の健康を祝して終わるのが一般的です。が、この詩は秋の悲しみを詠い、自らの老いの悲しみを重ねて、恩に報いられない、その憂苦を白楽天のように酒を飲み、琴を弾き、詩を詠じて自ら慰めようと結びます。従来のしきたりを破る斬新な詩で、「秋の思い」を存分に詠ったことから帝に褒められ御衣まで賜ったのでした。
ところが翌九〇一年、急転直下、讒言によって大宰府に流されます。道真は、醍醐天皇を廃し、その弟の斉世親王を天皇に立てようと企てた、というのです。身に覚えがなくても、天皇の怒りに触れた道真は大宰府へと赴き、俗に榎寺といわれる浄妙寺で謹慎の生活を送って「不出門」を作り、帝を思う「九月十日」を詠い、九〇三年五十九歳で亡くなりました。
道真の死後、京の都には流行り病が蔓延し、また貴権の人が雷に打たれて亡くなったりしたため、これは道真の祟りだとうわさされ、道真は天神として祀られ、後には学問の神、和歌の神、書道の神として広く信仰されるようになりました。
