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梁川星巌「常盤孤を抱くの図に題す」
常盤は近衛天皇の中宮九条院の雑仕でしたが、源義朝(一一二三~一一六〇)の妾となり三人の男児を生みました。義朝は平治の乱(一一五九)に藤原信頼と結んで平清盛と戦って敗死し、その子の頼朝は伊豆に流されます。この騒乱時に、常盤は雪の降りしきるなか、今若(七歳)、乙若(五歳)の手を引き、牛若(一歳)を抱いて大和(奈良県)竜門の里に隠れました。牛若はのちの義経(一一五九~一一八九)です。
梁川星巌の詩は、常盤の大和路逃避行を描いた絵に書きつけたもので、絵の作者は四条派の女流画家田氏の女玉葆です。
雪灑笠檐風捲袂[雪は笠檐に灑いで風袂を捲く]
呱呱覓乳若爲情[呱呱乳を覓むるは若為の情ぞ]
他年鐵枴峰頭嶮[他年鉄枴峰頭の嶮]
叱咤三軍是此聲[三軍を叱咤するは是れ此の声]
〈雪は常盤の笠のひさしに絶え間なく降り注ぎ、寒風は常盤の袂を捲き上げる。(今若、乙若の手を引き、牛若を懐に抱いて追手を逃れる常盤。牛若はお腹がすいて)おぎゃぁおぎゃぁと泣きながら乳を探し求めているが、(常盤は)どのような気持ちなのだろうか。やがて時が移り(源氏は平家追討の軍を進め)険しい鉄枴峰上に立って大音声をあげて大軍を指揮し、鵯越を一気に駆け下り平家の軍勢を打ち破った大将のその大音声こそ、寒風の中で乳を探しもとめて泣いていたこの声なのだ。〉
詩の見どころは、承句の、赤ん坊の牛若があげる「大きな泣き声」と、結句の、義経が大軍を叱咤して鵯越をする「大音声」とが相呼応する、発想の奇抜さにあります。前半も山、後半も山という設定もたくみです。言葉使いでは、承句の「覓」が印象的です。「もとめる」意ですが「求」ではなく「覓」としたことにより、赤ん坊が小さな可愛い手で乳房を探し回っている様子が目に浮かびます。
「若為の情」の解釈には、①牛若が泣きながら乳を求めるのはどのような気持ちだったのだろうか、②乳を求める我が子を抱く常盤はどのような気持ちだったのだろうか、と二説あります。しかし、牛若は乳飲み子ですから①の解釈には無理があります。②ではさらに、a、乳飲み子を抱いた身寄りのない常盤はどのような思いだったのだろうか、とするもの、b、赤ん坊が無心に泣いているのを見て、常盤は不憫な思いでいっぱいだった、という解釈があります。ここでは、aとbを合わせて解釈したいと思います。不憫な赤ん坊の牛若がのちに颯爽とした若武者義経となるのですから、私たち読者の心も一気に晴れます。
平清盛の死後、源氏方の木曽義仲が北陸から京に迫ります。平家は幼い安徳天皇と三種の神器を擁して都を脱出し、義仲と義経が戦っている間に、一の谷(神戸市須磨区)に城郭を構えて再起を図ります。義経は義仲を破ると一の谷へ軍勢を進め、寿永三年二月七日(一一八四年三月二十日)正面から兄の範頼が、義経は搦手から攻撃をしかけます。
一の谷の城郭の背後は三十丈の懸崖、十五丈の絶壁です。義経は、鹿が越せるなら同じ四つ足の馬も越せるはずと、卯の刻(午前六時頃)断崖を馬で攻め下り、一騎当千の勇士もそれにつづきます。鵯越の逆落としです。この奇襲が功を奏して平家の軍は須磨の浦に浮かべた船に乗って屋島へと落ちのびて行ったのでした。
常盤は逃避行のあと、清盛に捕らえられた母を救うため三児を連れて京に赴き、母と三児の命乞いをし、清盛の妾となります。この時、常盤は二十三歳だったといいます。のち寵が失われると藤原長成に嫁いだといわれています。没年は分かりません。
