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高啓「胡隠君を尋ぬ」
寒い冬が終わり暖かな春がやってくると、冬の重い衣を脱ぎ捨て、軽やかな足取りで、青々とした柔らかな草を踏み、かぐわしい花の香りにつつまれて歩いてみたくなります。明の高啓は胡隠君を尋ねがてら郊外を歩きました。
渡水復渡水[水を渡り復た水を渡り]
看花還看花[花を看還た花を看る]
春風江上路[春風江上の路]
不覺到君家[覚えず君が家に到る]
〈川を渡り、また川を渡り、花を見、また花を見る。春風の吹く川沿いの路を歩いているうちに、いつのまにか君の家に来てしまったよ〉
「水を渡り」「花を看る」を重ねて繰り返す表現から、川沿いの路を足の向くまま気の向くまま、寄り道をしながら歩いているようすがうかがえます。高啓は水の都として知られる蘇州の人です。むかし蘇州城内は水路と陸路が縦横に走っていました。城内の移動には舟を利用することもありました。郊外に出れば広々とした平野に大小の川が流れ、湖や沼があり、春の日ざしに輝いていたことでしょう。春の先駆けには梅の花、やがて桃の花や海棠の花が咲き、杏子、梨、菜の花などが咲きます。花のまわりには蝶が舞い蜂も飛んでいます。高い木の上にはカササギが大きな巣を作り、あちらこちらから鳥の美しい鳴き声が聞こえてきます。詩の前半はわずか十文字ですが、繰り返しの素朴な表現から、江南の春の美しい風景が浮かんできます。
詩題「胡隠君」の胡は姓です。具体的には誰かわかりません。「隠君」は隠遁生活をしている人。隠者とも隠士などとも言います。隠君を尋ねて行く作者も隠士然としています。
高啓は、字は季迪、長洲(江蘇省蘇州)の人で、松江の青邱に住み、青邱と号しました。元の末、張士誠の治下にいて、その重臣饒介のサロンに招かれ、並み居る諸先輩の前で真っ先に佳詩を作り、詩名をあげました。十八歳の時豪家の周子達の娘と恋愛し、詩才によって結婚が許されました。
このころ作った「青邱子歌」は、文学論を述べた長編の詩で、森鷗外によって日本語の詩に訳されました。明治の当時は漢詩漢文は訓読するのが一般的でしたが、この鷗外の日本語による訳詩が嚆矢となって、土岐善麿の『鶯の卵』や佐藤春夫の『車塵集』『玉笛譜』など、訓読によらず日本語の詩に翻訳する「翻案詩」が次々に生まれました。井伏鱒二の〝「サヨナラ」ダケガ人生ダ〟の名訳を載せる『厄除け詩集』も生まれました。最近では日夏耿之介氏に『唐山感情集』があります。
高啓は明の洪武帝の初期、招かれて都の南京に行き、『元史』の編纂にたずさわり、三年ののち戸部右侍郎(大蔵次官)に抜擢されます。が、辞退して故郷の青邱に帰りました。洪武七年(一三七四)、蘇州の長官魏観が府庁舎を改修して謀反と密告され、死刑になる事件が起こりました。高啓は魏観と親交があり、府庁の上梁文を書いていたため、連座して腰斬の刑に処せられました。三十九歳でした。「宮女図」という詩が帝を風刺していたので憎まれていた、ともいわれています。
高啓は、漢魏から唐宋までの詩を広く学び、『高青邱全集』十八巻、『鳬藻集』五巻などがあります。もともと自由を好む隠者のような人柄で、詩には田園の風物、茶摘み、養蚕、牧牛などを詠い、鴨を射たりタケノコを焼いたりする詩もあれば大水を詠う詩もあります。花ではとくに梅の花を好み、「梅花九首」をはじめ多くの梅の詩があります。吟詠では「問梅閣」もよく吟じられます。
