公益財団法人 日本吟剣詩舞振興会
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漢詩を紐解く! 2025年5月





白居易はくきょい菊花きくか

 晩秋のころ菊の花が咲きます。他の花があらかた散っているため、寒さのなかで独り咲く菊の花は清々しく、その美しさがいっそう際立ちます。白居易の「菊花」は、まさにその様子を詠います。



一夜新霜著瓦輕一夜新霜瓦いちやしんそうかわらいてかろし]
芭蕉新折敗荷傾芭蕉ばしょうあらたにれて敗荷はいかかたむく]
耐寒唯有東籬菊かんうるは唯東籬ただとうりきくのみって]
金粟花開曉更淸金粟きんぞくはなひらいて暁更あかつきさらきよし]



 〈夜が明けると、初霜が降りて瓦がうっすら白くなっている。芭蕉は新たに折れて、やぶれたハスの葉も傾いている。そうした中で寒気に耐えているのは、ただ東のまがきの菊だけ。金のような美しい花が咲いて、暁の風景がいっそう清らかになっている。〉


 初霜が降り、芭蕉が折れ、敗荷が傾き、と植物の衰えたなか、寒さに耐えて独り超然と咲く菊の花を「金粟」と表現して、その清らかさと美しさを強調します。第三句の「東籬の菊」は陶淵明とうえんめい陶潜とうせん)の「飲酒」其の五を踏まえています。


采菊東籬下[菊をる東籬のもと
悠然見南山[悠然として南山なんざんを見る]


 菊の花は、俗世を離れて悠然と生きる陶淵明と重ねられ、陶淵明の代名詞となり、隠者の象徴となりました。陶淵明ははじめ官僚となりましたが、宮仕えが厭になり「帰りなんいざ」と「帰去来ききょらい」を作って園田に引きこもります。ふる里の庭にはもともと三本の小径こみちがあり、菊や松が植えてあったようです。「松」も三本の小径「三径さんけい」も、隠者の象徴です。ふる里の三本の小径は荒れてはいるものの、まだその松と菊があった、「三径こういて、松菊猶しょうきくなそんす」と、陶淵明は「帰去来の辞」で言っています。


 隠者と言うと山林に住んでいる印象がありますが、陶淵明は町の中に住んでいました。それでも隠者として生活ができるのは、心の持ちようだと言います。


結廬在人境いおりを結んで人境じんきょうり]
而無車馬喧しか車馬しゃばかまびすしきし]
問君何能爾[君に問う何ぞしかるやと]
心遠地自偏心遠こころとおければ地自ちおのずかへんなり](「飲酒」其五)


 隠者はお金も地位もありませんが、自由があります。その隠者も、山林に住む隠者は「小隠しょういん」、町の中に住む隠者は「大隠だいいん」と言って区別する言い方が晋の時代に生まれました。陶淵明は「大隠」ということになります。


 一方、白居易は高官となって自由もありましたので、自らを「中隠ちゅういん」と言っています。


大隱住朝市[大隠は朝市ちょうしに住み]
小隱入丘樊[小隠は丘樊きゅうはんる]
丘樊太冷落[丘樊ははなはだ冷落]
朝市太囂諠[朝市は太だ囂諠ごうけん
不如作中隱かず中隠とりて]
隱在留司官かくれて留司りゅうしの官に在るに](「中隠」)


 「留司」は、分司東都という名ばかりの官です。白居易は陶淵明を慕い、「陶潜の体にならう詩」「陶公とうこうの旧宅をう」などの詩があります。


 この詩では折れた芭蕉と葉の破れたはすが詠われています。芭蕉は庭木としてよく植えられていました。中唐の竇鞏とうきょうは「隠者をたずねてわず」で、訪ねてきたことを知らせるために芭蕉の葉に名前を書いておきたいが、芭蕉は秋には耐えられないので書いても無駄かな、と詠っています。


欲題名字知相訪名字めいじを題して相訪あいたずぬるを知らしめんとほっするも]
又恐芭蕉不耐秋[又おそる芭蕉の秋にえざるを]


 ハスはのほかに、れん芙蓉ふよう芙渠ふきょ菡萏かんたんぐうなどとも表記され、古代から親しまれていました。晩秋になって枯れたハスや敗れた葉は敗荷はいかと呼ばれました。晩唐の李商隠りしょういんは、破れた恋と破れたハスを重ねて次のように詠っています(「夜冷」)。


西亭翠被餘香薄西亭せいてい翠被余香薄すいひよこううすく]
一夜將愁向敗荷一夜愁いちやうれいをって敗荷に向かう]


 宋の蘇軾そしょくは葉が無くなったことを次のように言います。


荷盡已無擎雨蓋荷尽はすつきてすでに雨にささぐるの蓋無かさなし]


 「金粟」は、この詩では菊の花のことですが、金銭と穀物を表したり、「けい」、金木犀を言うこともあります。


 夏目漱石『草枕』の初めの方に、陶淵明の「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る」と王維の「竹里館」の全詩が引用されています。