公益財団法人 日本吟剣詩舞振興会
Nippon Ginkenshibu Foundation
News
English Menu
漢詩を紐解く! 2022年7月




杜甫「登高」
(とほ「とうこう」)


夔州(四川奉節県)での作品です。 登高は、陰暦九月九日に高い所に上って菊酒を飲んだり、朱萸(カワハジカミ)の紅い実を髪に飾ったりして厄払いをする年中行事の一つです。九月九日は、陽の最高の数字が二つ重なるので「重陽」と言ったり「九日」と言ったりします。

杜甫は、四十九歳から五十一歳の春まで、四川省成都に浣花草堂を営みます。生涯で唯一平穏な時期でした。が、それ以後は、再び妻子を伴い、食料を求めて長江沿いを移住します。夔州には五十五歳の暮春に至り、五十七歳の正月には去りますが、自ら畑を耕したり、農園を営んだりしたといいます。

 風急天高猿嘯哀[風急に天高うして袁嘯哀し]
 渚淸沙白鳥飛廻[渚清く沙白うして鳥飛び廻る]
 無邊落木蕭蕭下[無辺の落木蕭々として下り]
 不盡長江滾滾來[不尽の長江滾々として来る]
 萬里悲秋常作客[万里悲秋常に客と作り]
 百年多病獨登臺[百年多病独り台に登る]
 艱難苦恨繁霜鬢[艱難苦だ恨む繁霜の鬢]
 潦倒新停濁酒杯[潦倒新たに停む濁酒の杯]

前半の四句は、秋のもの寂しい風景を描いています。

〈風が激しく吹き、空は高く晴れわたって、猿の鳴き声がもの悲しく聞こえてくる。渚の水は清く澄み、岸の砂は白く、鳥が輪をえがいて飛んでいる。限りなく広く落葉がざわざわと舞い散り、尽きることのない長江がこんこんと流れ下ってくる。〉

第一句は上、第二句は下、第三句は広がり、第四句は奥行き、と立体的に空間がとらえられ、さらに第一句は風の音と猿の声と聴覚に訴え、第二句は水や渚の色・鳥の色と視覚に訴え、第三句は変化するもの、第四句は変化しないものとの対比、というように周到に詠われています。

後半の四句は、作者の「おもい」を詠います。

〈都を去ること万里の地を、秋を悲しみながらいつも旅人となり、生涯を病がちに過ごしてきて、ただ一人高台に登っている。あいつぐ苦労のために鬢が霜のように真っ白になったことを恨めしく思い、すっかり老いてしまった近頃は、濁り酒をのむことさえもやめてしまった。〉

秋はただでさえ悲しいもの。紀元前三世紀の詩人宋玉は『楚辞』「九弁」で「悲しいかな秋の気たるや、蕭瑟として草木の揺落して変衰す」と詠いました。杜甫はこの夔州で「搖落して深く知る宋玉の悲しみ」(「詠懐古蹟」其の二)とも詠っています。宋玉の秋を悲しむ情は、ただ秋を悲しむだけではなく、その裏に故国の楚の衰弱を悲しむ情が隠されている、と宋玉の真意を読み取っています。

この「登高」もただ秋を悲しむだけではなく、無辺・不尽の天地におけるヒトという存在の悲しみを詠っています。広大無尽な天地の秋、それだけでさえ悲しいのに、ヒトの存在のはかなさを思うと、酒でも飲まずにはいられません。が、老いて病気がちな身では酒も飲めない、とわびしく詠いおさめます。杜甫は四十七歳のとき、やはり重陽節に「老い去きて悲秋に強いて自ら寛うし、興来たりて今日君の歓びを尽くす」(「九日藍田崔氏の荘」)と詠っています。その時は強いて自分の心をくつろげることもできたのですが、今は諦めしかありません。

夔州では「詠懐古蹟」五首や「秋興」八首などの七言律詩が作られています。杜甫は、唐代になって新しく生まれた詩形の七言律詩を、言語芸術の粹へと高めた、と評されています。確かに、言葉の的確な選択、言葉と言葉の緊密な繋がり、句と句との流れと構成の周到さ、そして何より作者杜甫の深いおもいが込められて います。またこの詩は、二句ずつがすべて対句の、全対格の詩です。 夔州の東は三峡の入口です。三峡にはかつて猿がたくさんいたといわれます。テナガザルの一種で、腹から絞り出すような悲しい鳴き声で、声を長く引きながらだんだんと音程が上がってゆき、まただんだんと下がってゆくという鳴きかたをします。猿の鳴き声は悲しい、というのが漢詩の通念で、「断腸」の語も猿から生まれました。