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漢詩を紐解く! 2025年12月





王之渙おうしかん涼州詞りょうしゅうし


 「涼州詞」は、涼州歌の歌詞、という意味です。辺境の風光や征役の辛苦・悲哀を主題とし、楽器の演奏に合わせてうたわれました。涼州は甘粛省にあった州で、州治は現在の武威県にありました。玄宗の開元年間(七一三~七四一)に献上され、次の天宝年間(七四二~七五六)には宮廷内で演奏されたといいます。



楽府題がふだい」の一つであり、同じ題で歌詞の異なる作品がいくつも作られています。王翰おうかんの「葡萄の美酒夜光の杯、飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す。酔うて沙場に臥す君笑うことなかれ、古来征戦幾人か帰る」もよく知られています。王之渙の作品は万仞の山のなかの孤城が舞台です。



黃河遠上白雲閒[黄河遠く上る 白雲のかん
一片孤城萬仞山[一片の孤城 万仞ばんじんの山]
羌笛何須怨楊柳羌笛きょうてき何ぞもちいん楊柳を怨むを]
春光不度玉門關[春光度らず玉門関ぎょくもんかん


 〈黄河をはるか遠く白い雲が湧くあたりまで遡ると、万仞の山のなかに一つポツンと取り残されたような町がある。ある日この町で異民族の吹く笛の音が響き渡った。そのメロディーは別れの悲しみを詠う「折楊柳」。この曲を聞くと、故郷を遠く離れている人はみな悲しくなる。が、ここではちっとも悲しくならない。それは、この町には、玉門関をわたって春の光りが射すことなく、柳が青く芽吹くことがないから。〉


 結句の「春光」は「春風」となっているテキストもあります。「玉門関」は敦煌の西にある関所で、中国と西域との境界になっていました。転句の「怨楊柳」は楊柳を悲しむ、の意。楊はカワヤナギ、柳はシダレヤナギです。漢詩では特に区別せず、楊柳でヤナギを指します。ただ、「折柳」とは言いますが、「折楊」とは言いません。「折」はヤナギの枝を折ることを言います。折った枝はどうするかというと、にして旅人に贈りました。楊では枝を環にできません。


 「環」は同じ音の「還」、つまり「帰る」に通じます。柳の枝を折って環にして贈り、無事に帰って来てください、という気持ちをこめたのです。また「柳」の音の「リュウ」が「留」にも通じます。あなたへの私の思いを留めます、という意味にもなります。柳は生命力の強い植物ですから、健康で無事に帰って来てください、ということだったのです。


 やがて「折楊柳」という笛の曲が作られ、別れの時に演奏されるようになりました。ですから、旅先で「折楊柳」の曲を聞くと、故郷が懐かしくなり、悲しくなりました。また、春になって柳が青々と芽吹くと、故郷や恋しい人を思い、悲しくなります。「柳」は別れの悲しみを誘発することばなのです。


 この詩では異民族の「羌」の人が笛を吹いています。これは前半の描写を承けています。前半では、起句の「黄」「白」の色彩の組み合わせ、承句の「一」「孤」と「万」の数字の使い方が巧みで、途方もない距離感と広大な天地の間の孤独感を描いています。そこで「羌笛」とダメ押しします。孤絶した町で国境を守るため故郷を遠く離れた兵士たちは、「折楊柳」の曲を聞けば、みな故郷を思って悲しむはずです。


 が、転句では、ちっとも悲しくならないと言います。なぜなら、玉門関を越えて春はやってこないから、と。意表を突く展開です。春がくることなく柳が芽生えることもない辺境だからというのです。


 高い山に囲まれて、いつ敵が攻めてくるか分からない不安を抱えながら、春もやってこない辺境の孤絶した町に駐屯する兵士。故郷が恋しく、恋しい人にも会いたいはずです。が、ちっとも悲しくない、と強がってみせます。この強がりが、逆に兵士たちの深い悲しみを表します。